大龍寺所蔵文化財調査について

大龍寺所蔵文化財の調査

所在地 木津川市木津内垣外 60
調査日 令和6年10月22日 (火)
調查者 木津川市文化財保護課 

[絵画]

1.絹本著色仏涅槃図
  八双-軸棒:284cm
  全幅 (軸棒長):219cm
  本紙縦:214.5cm
  本紙横:186cm
  箱蓋表「涅槃像 木津小寺村 大竜寺」
  箱蓋裏「奉造立涅槃像 正徳四〈甲午〉二月十五日 大龍寺四世證蓮社誠誉観冏代〈什物〉」
                                  ※正徳4年:1714年

【所見】

 本紙の大きさが縦2m、横1.8mを超える大型涅槃図です。すべての仏教各宗派で、お釈迦様が入滅した日である2月15日に涅槃会が催されていますが、箱蓋裏には、造立年月日として、正徳4年(1714)2月15日の日付が墨書されています。甚大な被害をもたらした木津川大洪水が起きた正徳2年(1712)の2年後にあたります。水害によって失われた涅槃図を、2年後の涅槃会にあわせて再興したものと推測されます。

 全体的な画面構成としては、画面上部中央に、お釈迦様が入滅した日は満月であったことから満月が描かれています。 画面上部右上には、お釈迦様の弟子であった阿那律尊者に先導されて、お釈迦様の生母である摩耶夫人とその侍女たち一行が釈迦の下に駆けつけている様を表しています。画面中央では、向かって左の側面をみせる宝床の上で、釈迦が両足を重ね、右手枕で右脇を下にして横たわる姿を描いています。お釈迦様は全身が黄金に輝いて表されていますが、 肉身と着衣は区別して表現されています。宝床の後ろには、お釈迦様が入滅した地であるクシナガラに流れる跋堤河(ヒラニヤヴァティー河)が描かれます。宝床の周囲には栄枯を表した沙羅双樹の木8本が描かれ、向かって右側の4本が白く枯れていて植物も悲しんだことを表し、左側の4本は青々と葉を広げて花を咲かせていて、お釈迦様が入滅されてもその教えは枯れることなく受け継がれていくことを示しています。お釈迦様の枕元の木には、摩耶夫人がお釈迦様のために投じた薬(「投薬」の語源となったとされています。)が入った袋を結びつけた錫杖が引っかかっています。そして、宝床の周囲には、お釈迦様の入滅の場に参集した菩薩や天部などの聖界の者、鬼などの異界の者、出家して弟子となった比丘や比丘尼、在俗の信者、さらに動物までもが嘆き悲しむ姿が描かれています。お釈迦様の足元でその体に触れている唯一の人物である老人(老女?)、お釈迦様の面前で悲しみのあまり卒倒している阿難尊者、倒れた阿難尊者を介抱している阿ぬ楼駄尊者、供物を持っている純陀といった、涅槃図に描かれる主要人物も定型どおり表されています。

 以上のような画面構成は、全国に残る多くの涅槃図と共通し、極めて正統的なものといえます。 また、本紙が縦長であることや、お釈迦様が右手枕で右脇下に横たわる姿であること、宝床が向かって左の側面を表していることなど、鎌倉時代以降になってあらわれる特徴を備えており、こういった点も江戸時代前期の涅槃図としてはオーソドックスなものであるといえます。

 なお、市内でほぼ同時期の涅槃図としては、山城町椿井・阿弥陀寺所蔵の涅槃図があります。阿弥陀寺涅槃図の上軸の墨書銘「順誉諦善禅定門子息/為夏屋了閑 (?) 信士菩提也/ 正徳四甲午年/七月十二日」 「寄進施主/柳上源兵衛/阿弥陀寺常什物 住寺演誉代」、収納箱蓋裏の墨書銘「正徳五乙未年秋彼岸仲日 山城国相楽郡上狛椿井村/柳上源兵衛」から、大龍寺涅槃図とほぼ同時期のものであることがわかります。阿弥陀寺の地元椿井村柳上の源兵衛が寄進した旨が記されますが、源兵衛と順誉諦善禅定門が同一人物であれば、その子息の菩提を祈って寄進されたものということになります。想像ではありますが、木津川大洪水で犠牲となった息子の菩提を弔うことが目的であったのでしょうか。阿弥陀寺涅槃図は、本紙の縦163.7cm、横121.4cmで、これも縦・横とも1mを超える大幅です。お釈迦様の着衣が緑色に表されていることや、枯れている沙羅双樹が向かって左側の4本であることなど、大龍寺涅槃図と異なる表現もありますが、概ね一般的な涅槃図の画面構成であり、大龍寺涅槃図ともほぼ同時期のものであることから、作風もよく似たものとなっています。

 ただ、大型の阿弥陀寺涅槃図をさらに凌ぐ大きさの大龍寺涅槃図は、近世村落寺院のために制作された涅槃図としては、非常に大きなものであり、しかも本格的な作風を示す、当時の一典型例といえるでしょう。また、確証はありませんが、正徳2年木津川大洪水にかかわるものとすれば、その被害からの復興を象徴する歴史資料としても重要な意義を有するものと考えられます。

2.紙本墨画鶴二羽の図
  八双-軸棒:200cm 
  全幅(軸棒長):114cm
  本紙縦 152.5cm
  本紙横:94.5cm
  本紙向かって右上に讃、左下に落款あり
  表装裏 「淺井柳塘画」
      「大竜寺什物二/ 寄附ス/飯田俊之助
       明治四拾年五月          」 ※明治40年:1907年
 
3. 紙本 (版画?) 著色阿弥陀浄土変相図 (観経変相図・当麻曼荼羅)
  八双-軸棒:176cm
  全幅 (軸棒長):102cm
  本紙縦:101.5cm
  本紙横:88.5cm

4.絹本著色三千仏図 三幅
  八双 軸棒:202cm
  全幅 (軸棒長):89cm
  本紙縦:161.5cm
  本紙横:71cm
 各幅の中央に描く仏は、いずれも如来坐像で、印相は、「施無畏印・与願印」「施無畏印・ 触地印」
「衣の中で定印」で、それぞれ釈迦・弥勒・阿弥陀を表すか。
 表装裏に施主名と戒名を記す。
 収納箱(箱蓋表に「掛軸箱」)の中に三幅とともに経本(折本)「未来星宿劫千佛名經」
「現在賢劫千佛名經」 「過去荘厳劫千佛名經」を納める。

[彫刻]

1.阿弥陀如来立像及び観音・勢至菩薩立像
 中尊は来迎印を結ぶ三尺の阿弥陀如来立像。表面の金箔が厚く、構造等は不明。
 下半身の大腿部には衣文を刻まず、中央に衣文線を集めてY字形とする。裳裾は足首あたりまでの長さとする。両袖から垂下する衣は薄く、衣文線は浅い。衣の胸のあきは大きめ。以上のように体部は、平安時代末期の如来立像の様式を襲う。一方の頭部は、頬のハリが強く、壇上安置のままの観察で確かではないが目には玉眼を嵌入するように見える。このような頭部の特徴は、鎌倉時代前期の如来像にみられるものである。従って、胎内納入品から建仁3年(1203)の造立であることがわかった大津市西勝寺木造阿弥陀如来立像に類する、平安末期の様式を踏襲した鎌倉時代前期の保守系仏師による作品である可能性がありそうである。

 しかし、頭部と体部では、表面の箔押し仕上げも異なるように見え、そのため修理の際に時代の異なる体部と頭部を組み合わせたとか、衣部と肉身部の仕上げを異なるものにしたかなどの可能性も考えられるが、表面観察のみによるため、結論は保留としたい。改めて詳細な調査と有識者による見解を求めることが必要と考える。
 なお、両脇侍の観音・ 勢至菩薩像は、江戸時代の造立。


[書跡]
1. 墨跡 (三行)
  八双-軸棒:201cm
  全幅(軸棒長):97cm
  本紙縦:151cm
  本紙横:79.5cm
  本紙墨跡
  本紙上部に印「大正六年/歳在丁巳」
  本紙向かって左下署名「在大龍精舎客席
  圓□((ヨメズ))道人  印 」 ※大正6年:1917年

2.墨跡(三行)
  八双-軸棒:196.5cm
  全幅(軸棒長):75.5cm
  本紙縦:133.5cm
  本紙横:58.5cm
  本紙墨跡
  本紙向かって左端に署名 「松菊□((ヨメズ))生 印 印 」

[工芸品]
1. 梵鐘 (本堂内)
  総高:56cm、 竜頭を除く鐘本体:46cm、口径:計測せず
  池の間に、次の印刻銘がある。
  「喚鐘十方旦那以/助力令建立者也」
  「城州木津小寺村/大龍寺/願主 観誉」
  「南都住/陳和氏/備前作」
  「延宝七〈己未〉歳/南無阿弥陀佛/三月廿五日」  ※延宝7年:1679年

2.梵鐘(鐘楼)
  池の間四方ともに銘文がある。うち2カ所は、次のとおり。
  「(陰刻) 山城国相楽郡木津小寺村
   (陽刻)       大龍寺
       南無阿弥陀佛
            観誉代   」
  「(陰刻) 延寶第七龍集〈己未〉
       脱春廿有五覚
     和州南都之住鑄師
       陳和氏弥左衛門知重作之 」

3. 双盤(鉦二枚一組)
  鉦叩き面の直徑約37cm
  鉦の縁裏に陰刻銘「京大佛住 西村左近宗春作」
  木製台の足の内側に墨書銘「寛延四〈辛未〉年三月廿五日」
  「大龍寺融誉代 施主鐘講中 」 ※寛延4年:1751年

4. 鬼瓦 左(向かって右)側面に「瓦利」の文字